
【活字情報】
「評判ストリップティザー告知板」
その昔、アメノウズメの裸踊りをやんやと囃したてたヤマト民族も、
時代の下るにつれてチラリの赤、
ホラリの白などと至極微細な「情趣」に移り馴れてしまったらしい。
そんな所へ戦後俄にアメリカ、フランス直輸入の、
ひどく開放的なストリップ・ショウが現われたので、
演る方も観る方も板につかず、
片や震えれば片や唾をのむという珍妙な雰囲気醸成とあいなったものとみえる。
しかし時移り日流れてここに登場の諸嬢の如きは「些か男性の本能を刺戟しつつ、
同時に姿態と踊りの美を味わわせよう」と本来のメンモクに徹しつつあると承る。
かくなる上は観る方も、
帰りの満員電車内のイタズラで鬱憤をはらすなんてケチなたくらみや、
「そもそもストリップとバーレスクの相違は…」なんてヤボな議論はやめにして、
その場限りの刺戟と観賞を朗らかに楽しみ、舞台から投げられた花の一つは、
微笑んで胸に挿すくらいのユトリとエチケットは養ってもよかろう。
ヒロセ・元美さん(26)
上海の日本料理屋の三女。小学校女学校共に上海。
幼時から踊りが好きで、
キャバレーへいって気に入った人に強引に先生になってもらい、
上海の所謂「本格的ストリップ」を親しく勉強。
終戦前「フランス文学をやった人」と結婚したが別れ、二十一年帰国後、
内職的に近所の娘さんたちに踊りを教えていたが、
日本のストリップショウを見て義憤?を感じ、出演したのが去年の十一月。
今年二月新宿での扇の踊りがひっかかり時々検察庁へ出頭。
「それで今は意気消沈してますの。もっと皆の眼を訓練しなくちゃあ……」
一日二千円の出演料。
「太り過ぎてもダメだしバレリーナのように調いすぎると性的魅力がなくなるし、難しい」
とストリップ本来の面目に徹し、
「結婚?物分かりのいい人と……そして私は正しいストリップ・ガールを養成したい」
「アサヒグラフ」1950年6月28日号より
(原文は字空けのみで区切られているが、適宜句読点と改行を加えた)
[情報提供:喜六](2004.11.24)
昭和24年(1949年)
吾妻京子、ベティ丸山、ヒロセ元美、フリーダ松木、園はるみ等がデビュー。
[性風俗写真館2]「赤線・ストリップ時代編」広岡敬一
イースト・プレス 2003.10.20より(2004.01.19)
第一線を退いてからも若い後輩の指導をしたりして、
この道と関係のある仕事を続けたヒロセ元美もやはり四九年(舞太郎-註:1949年)の
秋あたりから売り出してきたひとりだ。
厳密な意味で言う「ストリップティーズ」つまり焦らしながら一枚一枚と衣装を脱いでゆく技術を
日本に紹介したのが、このヒロセ元美だといってもいいだろう。
「生意気なことをいうようですが、
ただ裸を見せるだけの踊りならたんなるリベラルダンスにすぎません。
ストリップティーズは、どこまでも女性の体の線の柔らかい雰囲気を
清潔に表現することだと思います」
(略)大きな羽根扇を使ってのファンダンスも、日本では彼女が元祖で(・・略)
1950(昭25)6月 新東宝『青春デカメロン』出演
[ヌードさん]橋本与志夫、築摩書房より
【コメント&生情報】
上記でおっしゃっている事は、
現在もこの業界の根底を支えているストリップティーズの定義とも言えます。
[舞太郎](1996.06.19)