
【活字情報】
「浅草座・ムーン冴子」
(略)
橋本与志夫著『おお、ストリップ』を読むと、
だいたい昭和二十二、三年はストリップの勃興期で、ストリップという語もまだ定着せず、
二十四年ごろから本格的にストリップ全盛時代に突入して行ったことがわかる。
私がしげしげと浅草へ通い出したのもそのころから。
六区興行外のはずれ、旧江川劇場の地下に、
浅草座というストリップ劇場が生まれたのは昭和二十四年の春だが、
この小屋のムードがバカに気に入って私は通いつめた。
(略)舞台中央から、花道のように廊下が客席へ張り出しているという、
いわゆる「デベソ」の構造は、恐らくこの劇場が最初に試みたものではなかったか。
そういう構造をいかして、例えば、踊り子が総出で、
徳利と盃とを持って客席をついで廻るというような新しい趣向も、
ここではじめて行なわれたのである。
それに、もうその頃は、メリー松原、ヘレン滝、朱里みさお、
ミス池上など先駆的ストリッパーは活躍していたのだが、
そういうAクラスの踊り子に比べ、
浅草座の出演者は、そろいもそろってBCクラスであった。
BCというのは、踊りが満足に出来ないということ。
実はこれが、私の好みにピッタリと合った。
もともと私は一級品ごのみのたちではなく、万事二流愛好の癖があるのだが、
どうも私はストリップに、
踊りや姿体のよさよりも……いや、踊りも姿体もいいに越したことはないのだが、
女としてのケナゲサを求めていたようである。女はケナゲなるをもって美の最上級となす。
私は今もケナゲさこそが女性評価の第一条件だ。
浅草座には素人まるだしのケナゲな子がそろっていた。
そういう子が一生懸命やっているうちに、
だんだんと踊りが上手に……というより慣れてきて、
それらしく踊ってみせるようになってゆく。その過程を見守るのも浅草座のダイゴ味だった。
そういう中で、とくに私のゴヒイキだったのはムーン冴子である。
その頃、内外タイムスの紙上で、ストリッパーのベストテン選出が行われていたが、
投票の最終結果では、わがムーン冴子が、浅草座を代表して十一位の準入選となり、
その十一人が、丸の内の読売ホールの舞台で、妍を競うということになった。
なにしろ、ハニー・ロイ、吾妻京子、伊吹マリ、奈良あけみ……など、
そうそうたる入選者の顔ぶれである。
“BC派”のムーン冴子にとって、ホールの大舞台で踊るのは、
正直、荷が重いなァと、私は心配だった。
ムーン冴子は、文金高島田の花嫁衣裳で舞台にあらわれた。
金襴ドンスの帯しめながら……の「花嫁人形」の曲にのってである。
彼女は堂々と、舞台せましと踊る。
踊る……というより、花嫁のウレイをいっぱにこめて、可憐にただ歩く。
しかし一向にヌグ気配をみせない。
アア遂に、一曲まるまる、帯ひとつとかずに踊り切ったかと思った時!
曲のエンディングに合わせてクルッと後を向くと、花嫁衣裳のスソを、
大きくパァーとまくって、まっしろな、ツルツルのお尻を客席に見せた!――暗転。
客席から笑いともドヨメキともつかぬ声がドッとあがって万雷の拍手。
その万雷分の一の拍手は、ヤッタァーという私の拍手であった。
小沢昭一「ストリップ私史 裸師たちとの出合い」より抜粋
中谷陽編『ストリップ昭和史』(インテリジェンス社、1979年刊)所収
のち、小沢昭一『ぼくの浅草案内』(ちくま文庫、2001年刊)にも一部再録
[情報提供:喜六](2004.03.08)