【活字情報】
時間AM11〜PM11:40
料金4千円
地下鉄丸の内駅歩5分
[さくらんぼ通信6・15増刊号 舞姫 ヌードダンサー]
ミリオン出版:昭和63年6月15日発行より
[情報提供:TY](1997.01.12)
[劇場探訪] −甘くせつないときめき、残して−
古くは大正の初期より地域に密着した興行を。
芝居・浪曲・講談など時代により演物は徐々にかわり、近年はストリップ専門劇場として名高い。
一頃金髪外人が名物のひとつであったが、
入管法改正後はAVギャルが常時来演、ネームバリューのある踊りコを集め人気を博していた。
1月31日をもって惜しまれつつも劇場はその幕を閉じる。
・定員75名
・市内唯一、回転ベッド(デベソ)が3つある。
・午前中、開演までビデオ上映
[THE PLAY MAGAZINE 1991年2月号 プレイマガジン出版]より
[情報提供:TY](1997.04.08)
ストリップ読者投稿 ”開慶座”惜別
【コメント&生情報】
「市街地区画整理で消えた」
カイケイ座閉館については、誠に残念、寂しい限りである。
1月22日付の中日新聞市内版でも大きく取り上げられていた。
古くからの円頓寺の人達の惜しむ声が寄せられていたが、
だいたいストリップ小屋の灯が消えるのを近所の人が惜しんだり、
新聞が記事にするというのが珍しい。
カイケイ座は、名古屋の伝統が今も根づく庶民の街・円頓寺のシンボルでもあったかのようだ。
新聞記事で初めて”開慶”という字ヅラを知った。明治の創業者は今さらに由緒ある名を付けたものだ。
前にも投稿で書いたけど、ここの照明サンの歯切れのよい、洒脱な口調が忘れられない。
客との当意即妙なかけあい、ただ”拍手・拍手”の連呼で
踊り子の名前さえ不明瞭なことが多い他の劇場とは、ひと味違うところであった。
こんなこともあった。初日にお目当ての踊り子サンに差し入れを用意したが、
急用ができ仕方なく門口へ持ってゆくと、「折角来たんだから、オネエサンを楽屋から呼んであげる。
自分で渡した方がいいよ。」と。
入り口あたりにコワモテのお兄チャンがたむろしているといったこともない。
とにかく入りやすい劇場であった。
カイケイにのっている踊り子サンは通って顔見知りになると、
けっこう気サクにお茶など付き合ってくれたりもした。
ところが同じ踊り子サンでもヨソではそうはいかない。
”ここウルサイのよネ”とすまなそうな顔をされたり、
劇場も一度出たら入る時はもう一度入場料を払えといった風である。
カイケイのおおらかさは、
新興の劇場と違ってやはり伝統とその土地柄に密着したところからきていたのであろうか。
もうひとつ、ユニークで面白かったものに、次週予告の今風に言うならキャッチコピーがあった。
ステージ上部に掲げられた大きな横断幕に次週の予定が大書きされ、
いつも一言時節に応じた文句が添えられていた。例えばこんな調子で。
”いよいよ年の瀬・寒くなりました。フトコロも寒いかも。
だけどピチピチギャルに触ってごらん。心も○○もアッツアツ。
来週もカイケイが待ってます”。
一年36回、考えるのも大変だったと思うが、部長サンとやらが作っていたそうだ。
多少のエッチさも混えた、毎度ウイットに富んだコピーだったが、この部長サン、どんなお人柄だったのか。
ついに最終日。○○○○○をはじめ看板スターが勢揃い。
フィナーレや休憩もカットしての大サービスで11時を過ぎるほど、有終の大盛況を飾った。
連日、大入り袋が出ていたとのこと。
消えゆくカイケイ座はストリップはスルものではなく見るもの、
魅せるものという本来の姿を示してくれたように思う。若者には青春の鬱屈を発散させてくれ、
わがオジン族にはノスタルジーを感じさせつつ過ぎし日の熱き血潮を蘇らせてくれた桃源境・カイケイ座よ、
ありがとう。さようなら。(大いなる感傷をこめて〜中村区AT)
[THE PLAY MAGAZINE 1991年4月号 プレイマガジン出版]より
(一部編集:weekly)
[情報提供:TY](1997.04.08)
閉館を伝える記事は、中日新聞の縮刷版に納められています。
それによると、明治中期から、浪曲、演芸、芝居、映画、剣劇などの小屋を経て、
ストリップ劇場として終焉を迎えたようです。
[横内](2001.11.11)
[森下裕一](1996.10.12)
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