長野パラリンピックを目の当りにしてなんだかもやもやした気分になった。 こういう話題には誰も触れたがらないし、なかなか表に出てこない。 しかし、本音で議論しなくてはならない時期でもあると思う。 当たり前の話だがパラリンピック開催中には、 長野という小さな街に世界各国からの障害者が集まった。 いろんな意味でパニックになっていた。 ある駅で駅員達の会話が聞こえてきた。 「まただよ、1番線で車椅子」 「ホームに降ろすんですか? じゃあ、私も手伝いに行きます」 「だめだめ、ばかでかい外人なんだよ。 とても2人じゃ降ろせないよ。 あと、2、3人集めて来て。ほんと、まいっちゃうよなぁ」 ただでさえごった返していて、忙しく走り回っている中でのことで、 「まいっちゃう」という本音がつい出てしまったようだ。 このあたりが一般の本音のように思える。 競技に関してもいろんな声が聞こえてきた。私もいろいろ疑問に思った。 ああいう競技が本当の意味で平等なのだろうか? 競技を見ているとなんだかものすごく差別をしているように感じた。 障害者、健常者で競技を分けることそのものが差別ではないのだろうか。 だれもが同じ土俵で戦ってこそ、平等といえるのだと思う。 もしやるんだったら障害者、健常者の分け隔てなく、 視覚を使わない競技や下半身を使わない競技で競い合うのが本当だと思う。 「保護や援助」ということは、裏返せば「差別」と同じである。 「平等」ということとはまったく方向が違う。 現状ではこのへんがごっちゃになっていて、もやもやしてしまう。 人びとはどちらを求めてどちらを目指しているのだうか?
[舞太郎](1998.3.18)